尹氏は検事総長を経て22年3月の大統領選に当時、保守系最大野党だった「国民の力」から出馬。進歩系「共に民主党」のイ・ジェミョン(李在明、現同党代表)氏を僅差で破り、第20代大統領に就任した。尹氏は当選した際の演説で、自身が大統領に選ばれたことを「新たな希望の国をつくれという峻厳(しゅんげん)な命令」と受け止めるとし、「国民だけを見つめて進む」と誓った。当時の尹氏は政治経験がないという最大の弱みを抱えていた上、国会の議席は自身が所属する「国民の力」が半数に及ばず少数与党となるという困難な状況下、政権のかじ取りが上手くできるか懸念されていた。
尹氏がまず着手したのは前政権時まで大統領府が置かれていた「青瓦台」の開放だ。青瓦台をめぐっては、ムン・ジェイン(文在寅)前政権の「密室政治」を批判した尹氏が、国民との距離を縮めたいとして「国民にお返しする」と宣言。尹氏の大統領就任式に合わせ、市民に開放された。1948年の政権樹立以来続いてきた権威主義的な「青瓦台時代」を終わらせたことに、韓国現代史における大きな転換点となったとして、当時、評価する声も上がった。
また、在任中、日韓関係の改善を進めてきた。両国にまたがる最大の懸案とされた元徴用工訴訟問題は、解決の糸口が見えない状況が続いていたが、尹氏は政権発足後間もない時期に解決策を探るための官民合同の協議会を立ち上げるなど、解決に向けた動きを活発化させた。そして2023年3月、韓国政府はこの問題の「解決策」を発表した。これをきっかけに、日韓関係は劇的に改善し、日韓の首脳が互いに行き来する「シャトル外交」も復活。今や、政界のみならず、経済、そして民間同士の交流が活発化している。また、尹氏は日本のみならず、米国との連携も深化させた。23年の米韓首脳会談では、米国が核戦力を含む抑止力を提供する「拡大抑止」の強化に関する共同宣言を発表した。また、3年間で数十回にわたって海外を歴訪。自ら「1号営業マン」となり、外交セールスを展開した。一方、対北朝鮮政策では強硬姿勢を取った。これに、北朝鮮は韓国を「第1の敵対国」と位置づけ、対決姿勢を強めてきた。
内政では、就任時に上がっていた前述の懸念通り、国会で野党「共に民主党」が過半数を占め、与党「国民の力」は少数与党である状況に苦しんだ。昨年4月に行われた総選挙で、少数与党からの脱却を目指したが、「国民の力」は大敗。「共に民主党」をはじめとする野党をますます勢いづかせた。さらに、妻のキム・ゴンヒ(金建希)氏をめぐるさまざまな疑惑も重なり、支持率は低下。24年2月には、大学医学部の定員増の方針を打ち出したことに医療界が反発。研修医が集団離職するなどして医療現場は混乱に陥った。
野党に国会の主導権を握られる状況が続き、尹氏は昨年12月、予算案に合意しない野党側の対応などを理由に、「非常戒厳」を宣言した。非常戒厳は韓国憲法が定める戒厳令の一種。戦時や事変などの非常事態で、軍事上、必要となる場合や公共の秩序を維持するために大統領が発令するものだ。非常戒厳は早期に解かれたものの、韓国社会に混乱をきたし、国内政治は不安定となった。「共に民主党」など野党は、尹氏が「憲法秩序の中断を図り、永続的な権力の奪取を企てる内乱未遂を犯した」などとして憲法違反を指摘し、尹氏の弾劾訴追案を国会に提出した。昨年12月、採決が行われ、賛成204票、反対85票で同案は可決した。これを受け、尹氏は職務停止となった。
同案の可決を受け、憲法裁が6か月以内に尹氏を罷免するか、復職させるかを決めることになり、今月4日、憲法裁は尹氏の弾劾が妥当だとする決定を言い渡した。これにより、尹氏は失職した。
尹氏は6日、自身の支持者で作る団体「国民弁護人団」に向けメッセージを出した。「私は大統領職から降りたが、いつも皆さんのそばを守る」などとした。罷免後、尹氏がメッセージを出すのは、国民向けに出した4日に続き2回目。
任期半ばでの退場となった尹氏は、通常、5年の任期を終えて退任する場合に得られる、秘書官3人、運転手1人の専属サポートや大統領在職時の報酬の95%に当たる年金支給など、様々な待遇が受けられないほか、歴代大統領らが眠る国立墓地「ソウル顕忠院」に埋葬される資格も失った。一方、警護・警備は今後5年間、維持される。
韓国メディアのヘラルド経済は、尹氏について「『自然人、尹錫悦』へと戻った」とした上で、「長期間にわたる低支持率や、巨大野党との対立などが繰り返される中、結局、12・3(12月3日)非常戒厳を機に、歴史の表舞台から退くことになった」と論評した。
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