判決文の公開を求める運動を始めたのは、同委員会の紺谷延子事務局長(62)だった。京都に暮らす主婦の紺谷氏は2001年8月、韓国の詩を読む会に参加した。偶然、尹東柱が1943年に逮捕される直前、留学していた同志社大学の友人らと京都の宇治川・天ケ瀬吊り橋で最後に撮った写真を見たことから、運命が変わった。紺谷氏は「わたしが何度も見た光景を尹東柱は人生の最後の瞬間を前にして見たと思うと、妙な運命のようなものを感じた」と話す。
その後、尹東柱が京都に来た5月になると、毎年天ケ瀬吊り橋から川に花を投げた。宇治に尹東柱記念碑を建立しようとの呼びかけに賛同する人が徐々に増え、2005年に建立委員会を発足した。
委員会は宇治市に2007年10月、記念碑建立を申し出た。当時、宇治市の担当者は「天ケ瀬吊り橋周辺でなければ、宇治川周辺で記念碑を建てられる場所を探す」と約束したが、その後、市は否定的な方向に変わり続けた。委員会は募金運動で550万円を集め、2008年に縦175センチメートル、横120センチメートル、幅80センチメートルの記念碑を作った。記念碑には尹東柱が1941年、母校の延喜専門学校の学友会誌に自筆で掲載した詩「新しい道」を刻んだ。
2008年4月には京都府に碑石を建てられる2平方メートル程度の土地の提供を求めた。委員会が最も有力な候補地として挙げているのは、特に観光客に人気が高い宇治川の塔の島。計画が実現すれば、日本で大学キャンパス外に設置される初の尹東柱記念碑となる。現在、日本には同志社大学と、京都造形芸術大学のキャンパスに詩碑が設置されている。
だが京都府は、「写真1枚では宇治に記念碑を建てる根拠が不十分」と難色を示している。これに対し委員会は、市民1万人余りから記念碑建立の署名を集めると同時に、尹東柱が京都に残した痕跡を探すため、ことし検察に裁判記録の公開を申し入れ、全文のコピー公開という成果を上げた。
15日に記者会見で経過を報告した紺谷氏は、「今回のことをきっかけに、さらに尹東柱の痕跡探しに力を入れ、必ず宇治に記念碑を建てたい」と述べた。
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