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ブルース・リー、チェン・チウシア(遭蓄馬)、暴圧的な維新体制と黒い制服。1970年代を代表するいくつかのアイコンで始まる『マルチュク青春通り』は、暴力的な時代に対する反省と、“制服世代”の成長記を取り上げているという点で、やはり映画『友へ チング』を思い出させる。もし、男子高校を舞台に、抑圧と反抗、命令と服従で、画一性を共用していた70年代の社会像を反映するという設定が全てであったなら、『マルチュク青春通り』は、『友へ チング』の影から出られなかったはずだ。しかし映画は、ある気の小さくか弱い少年の成長記に焦点が当てられ、それなりのアイデンティティーを得ている。
『マルチュク青春通り』が、亜流の疑惑から開放される証拠はまだある。この映画は、ユ・ハ監督が10年前に残した詩と散文から生まれた映画だということだ。だから、この映画をより明瞭に理解するためには、彼の文学撰集を読んだほうがずっと手軽であろう。『学校で学んだもの』の他に、『セウン商店街キッズの恋』『鳥たちはマルチュク通りで眠る』、そして散文集『ブルース・リー世代に捧げる』には、それこそ『マルチュク青春通り』の設定が全てそのまま入っている。
しかし監督は、文字化された体験談をただ映像化するに止まらなかった。そのような設定に命を吹き込むのはやはり実感のあるキャラクターたちである。校内秩序を暴力で支配する“キャプチャン(番長)”と、それに敵対する勢力、陰口を叩く弱い小市民、猥褻書籍を持ち込んでは売りさばく商売人など、大人たちの世界と少しも違うところのない維新体制末期の学校が、社会の縮小版のように描かれている。このような、主演のような助演が描く悲壮なリアリティーのため、『マルチュク青春通り』は、クォン・サンウとハン・ガイン、イ・ジョンジンだけの平凡なラブロマンスに格下げされていないのである。
『マルチュク青春通り』のもう一つの長所は、この“男たちの映画”が、ハン・ガインの女性性で映画の柔軟さを維持しているのでなく、ヒョンス(クォン・サンウ)の感性で、映画全体を調節しているというところである。ヒョンスは、真の強者だけが言える台詞「俺はケンカが嫌いだ」を何度も繰り返し、観客に実力を隠した転校生番長のイメージを思い浮かばせる。しかし小心な少年たちの“基本姿勢”である、曲がった背や肩で始終一貫するクォン・サンウの姿は、“本当にケンカが嫌いな”弱者の真の姿を改めて思い知らせる。クォン・サンウは、『火山高』や、ドラマ『天国の階段』で見せた、強く自信にあふれた典型的な男性像を捨て、感受性が強く内気なヒョンスのキャラクターに自分を投影し、イメージチェンジに成功した。
映画が、大衆的なコードで効果的に使用している“ブルース・リー”は、その時代を生きてきた人々には思い出を、若い世代には神話的な英雄に対する憧れの連帯感を提供する。カッコいいポーズと台詞、果ては叫び声まで完璧に用意していたブルース・リーは5(または6)対1の対決で、男性たちのロマンに火をつける。それは監督が自分の学生時代に出来なかった欲望の現れであると同時に、すべての弱い男性たちが夢見るファンタジーである。このような“17対1”に対する事実的考察は、『オールド・ボーイ』のものと同じくらいうまく描写されている。15年の恨みのこもったトレーニングや武術の訓練などはなかったが、だからこそ彼の決闘は、勝敗を超え、一層凄絶なものだった。しかも、典型的な英雄ではなく、奇襲をしかけての苦戦で、生き残るため力を尽くす小市民の同質感すら感じられる。
ユ・ハ監督は、指導部長との対決で勝利した後、「大韓民国の学校なんか全部クソ喰らえ!」と叫ぶシーンがこの映画の核心だと言っているが、始終、隠喩で一貫してから直撃弾を飛ばしたようなこのシーンは、むしろ不自然な大言壮語のような気がする。それよりは、大学進学のために再び塾に通うヒョンスの姿から、また、暮れ行くブルース・リーの時代と浮かび上がるジャッキー・チェン時代との狭間で、強い抵抗にもかかわらず、結局既成社会に屈服しなければならないという現実が、より深い余韻を残している。
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