李成桂(イ・ソンゲ)は、10万の大軍を率いて遼東の地を制圧しに向かった。(写真提供:ロコレ)
李成桂(イ・ソンゲ)は、10万の大軍を率いて遼東の地を制圧しに向かった。(写真提供:ロコレ)
■王命にさからう決意

 李成桂(イ・ソンゲ)は、10万の大軍を率いて遼東の地を制圧しに向かった。

 しかし、李成桂の懸念通り、連日の雨で兵士たちの間に伝染病が流行した。そのため、高麗の軍勢は鴨緑江(アンノッカン)の中流にある威化島(ウィファド)にて留まらざるをえなくなった。

 その間も兵たちの士気の低下は著しかった。

 こうした状況を憂いた李成桂は、高麗王へ兵を引き返す許可を求めるが、一度下された命令が覆ることはなかった。

 李成桂は憤りを隠せなかった。

「国を思う私の忠告も聞かず、ろくに戦況も把握できずに兵を死なそうとする者を、私は王として仰がなければならないのか…。将である私1人が死ぬ分には構わないが、不甲斐ない私のためにこれ以上兵を殺すわけにはいかない」

 葛藤の結果、李成桂は威化島にて全軍を引き返す決意をした。この決断をしたことで、李成桂は王名に逆らった反逆者として処罰されるしかなかった。しかし、彼は降りかかる困難をただ見ているだけの男ではなかった。

「この高麗に平穏な秩序を設けよう」

 李成桂は断固たる決意を胸に秘め、都へと軍を引き返した。


■朝鮮王朝が建国

 李成桂は反逆者となった。

 それを官軍は許さず、いたるところで戦闘が始まった。もはや退路のない李成桂たちは果敢に戦い、彼らの勢いは官軍を上回った。

 最後に、都に戻ってきた李成桂の軍勢の前に崔瑩(チェ・ヨン)将軍が立ちはだかった。高麗最高の武将と言われる2人の対決だったが、軍配は李成桂の側にあがった。

 勝利した李成桂は、高麗の完全なる実権を握った。

 李成桂は高麗王を追放し、自分の都合のいいように動く恭譲王(コンヤンワン)を王位につけた。

 しかし、黒幕でいることよりも自ら王になりたいと思い、1392年に即位した。太祖(テジョ)の誕生である(以後、李成桂を太祖と表記)。

 当初、太祖は高麗の国号と法制をそのまま使って国を治めようとしたが、多くの人々が高麗を懐かしんで自身に従わないと感じ、国号と首都を変える決意をした。

 国号は「朝鮮(チョソン)」となり、首都は1394年に漢陽(ハニャン/現在のソウル)に移った。

 国教も仏教から儒教に変わった。

 その結果、仏寺はことごとく破壊された。そのために、仏教を志す者たちは山林の中に身を隠し、ひっそりと暮らすしかなかった。現在の韓国で仏寺が山林の中に多く残されているのはこの影響だ。


■死を選んだ高麗の忠臣たち

 太祖は産声を上げたばかりの朝鮮王朝をより強固にするために、有能な臣を求めた。

 とはいえ、高麗時代からの忠臣たちは高麗を最後まで守ろうとして、太祖からの呼びかけを無視し、杜門洞(トムンドン)という村に身を隠すようになった。

「我らが忠誠を誓うのは高麗であり、朝鮮などには忠誠を誓えぬ」

 彼らは口を揃えてそう唱えると、村から出てこなくなった。意地になった太祖は、部下たちに非情な命令をくだす。

「杜門洞の周囲に脱出口を設けた後に火を放て!いかに強情な奴らでも火に追われれば、出てくるだろう」

 太祖の予想ははずれた。

 120名いた忠臣たちは誰ひとり、杜門洞から出てくることはなかった。彼らの忠義の心は自身の命よりも重かったのだ。

「彼らの決意を甘くみていた。優秀な人材を無残に殺してしまうとは…」

 自らの手で有能な人材を殺してしまったことを太祖は悔やんだ。

 ちなみに、この事件がきっかけで、外に一歩も出ないで1か所にこもってしまうことを朝鮮半島では「杜門不出(トムンブチュル)」と言うようになった。


文=慎虎俊(シン・ホジュン)
(ロコレ提供)

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