一般公開を控えた光化門=(聯合ニュース)
一般公開を控えた光化門=(聯合ニュース)
【ソウル11日聯合ニュース】光化門は朝鮮王朝の王宮・景福宮の正門として、景福宮とともに朝鮮建国直後の1395年に建立された。
 建立当時の名称は「四正門」だったが、1425年に「王の大きな徳が国を光らせる」との意味の「光化門」に改められた。だが、光化門はその名とは裏腹に、戦争で2度にわたり焼失する痛手を受けた。
 最初の焼失は、壬辰倭乱(文禄の役)。「朝鮮王朝実録 宣祖修正実録」には、第14代王の宣祖が避難した際、一部農民が景福宮に火をつけたと記されている。国の財政不足により、壬辰倭乱後270年間、光化門を再建することはできなかった。
 ようやく再建がかなうのは、朝鮮末期、高宗が即位してからだった。高宗の実父・興宣大院君は、国が一部の勢力に左右されていた当時、地に落ちた王室の尊厳を内外に誇示するため、1865年に景福宮とともに光化門を再建した。
 しかし、光化門の受難はさらに続いた。日本による植民地時代には、景福宮敷地内に朝鮮総督府庁舎が入り、光化門は取り壊しの危機に追い込まれた。幸い、当時の日本の民芸運動家、柳宗悦・東洋大学教授が新聞への寄稿などさまざまな方法で光化門の保存を訴えるなどしたため、門は撤去されず、移転されることになった。
 かろうじて撤去を免れた光化門だが、韓国史の悲劇といえる朝鮮戦争から逃れることはできず、再び焼失した。その後、朴正熙(パク・チョンヒ)政権当時の1968年、門上部だけが鉄筋コンクリート構造で再建された。
 しかし、当時の文化界からは、木造建築物を鉄筋コンクリートで再建するのでは、復元ではなく「模造」だとの反論が相次いだ。当時の報道によると、詩人の徐廷柱(ソ・ジョンジュ)氏は「コンクリートで光化門を復元する意味は何なのか」と問い、ある美術評論家も「伝統的な韓服のパジ(男性用韓服のズボン)に洋装の上着を着るようなものだ」と批判した。
 結局、光化門は1995年、金泳三(キム・ヨンサム)政権時代に発表された景福宮復元計画により、木造構造で復元されることが決まった。景福宮内の王と王妃の寝殿や王子が生活していた東宮、泰元殿、興禮門の復元が完了した後、2006年12月4日から、光化門復元工事が始まった。発掘や築造など工期は4年に及び、植民地時代や1968年の再建で失われた本来の姿も元通りに、まさに「復元」された。
 数々の苦難を経て、光化門は今月15日、華麗かつ雄壮なその姿を一般に公開し、615年の歴史を取り戻す。


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