日本の国家主義団体、黒竜会の幹事だった葛生修亮は著書「韓海通漁指針」(1903年)で独島をこのように描写した。彼はこの本で独島を「ヤンコ島」と呼び、島の長さは「十余町」で沿岸は入り組んでおり漁船が波風をしのぐのに適していると説明した。
また、飲み水や燃料などの入手は難しいと記している。
韓国外国語大学の李永鶴(イ・ヨンハク)教授は、葛生修亮が「独島を鬱陵島の頂上から見える朝鮮の領土と認識していた」と説明した。またこの本には独島と鬱陵島についての詳細な説明があり、日本の漁民の立場から二つの島の領海は、恵まれた漁場だと記述されているという。
1903年のこの本の出版にあたり、推薦の言葉を書いたのが日本の農商務省水産局長だった牧朴真だった。彼は独島と鬱陵島が朝鮮の領土だと認識していたと李教授は指摘する。
李教授によると、明治政府は明治初期から独島を朝鮮の領土だと認識し、日本の海軍水路部が出版した1894・1899年版「朝鮮水路誌」では「リアンクール列岩(独島)」を朝鮮領としている。
李教授は、鬱陵島と独島周辺は漁業資源の宝庫で、特にあわびの漁場として有名だったため、日本の漁民が不当な操業を行い、朝鮮政府と漁民との間で衝突起きたと話した。
李教授は25日から韓国で開かれる世界韓国学大会で、「19世紀後半の日本漁民の東海密漁と朝鮮人の対応」というタイトルで研究論文を発表する。
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