尹晶煥氏(画像:聯合ニュース)
尹晶煥氏(画像:聯合ニュース)
現在、サッカーJリーグで首位をキープしている「サガン鳥栖 」の韓国人監督 尹晶煥(ユン・ジョンファン)氏が突然の解任劇に巻き込まれ、サッカーファンの間で論争が起きている。

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 2011年、Jリーグ初の韓国人監督として「サガン鳥栖」を2部から1部リーグに昇格させた立役者でもある尹監督。快進撃を続けるチームの監督がシーズンの途中に解任されるという異例の事態、いや、「前代未聞」の事が発生したのだ。

 これには、日本のメディアだけではなく、韓国メディアも注目していたところ、尹監督の解任後、「サガン鳥栖」の初めての試合が台風によって延期された後、敗戦で終わったしまったのだ。
 
 尹監督の解任理由は、「一部選手の優遇をめぐる球団側との葛藤」とされているが、尹監督本人は「より発展的な進路を決めるための選択」とコメントしている。しかし、一部の韓国ファンからは、歴史問題や領土問題から日本で蔓延している「嫌韓」が解任の理由だとする「憶測」の声も出ている。

 尹監督はまだ40代前半という若い指導者で、選手時代には韓国代表としても国際Aマッチ38試合に出場、3得点している。それなりの知名度を持つサッカー人だが、今年は「サガン鳥栖 」を「1位」に導いたことで韓国サッカー界でも評価されるようになった。

 堅い守備をベースにした素早いカウンターやロングパス、体力と根性を大事にする彼の戦略は、韓国代表チームの伝統的なスタイルでもあることから、「日本で韓国型サッカーを適用させ、新しいジャパニーズ・サッカーを作り上げた」との評価が多い。

 そんな尹監督の過去の選手時代をおさらいしてみよう。

 韓国釜山の東亜大学時代の1994年に韓国代表として初選出され、1995年には韓国Kリーグの「油公コッキリ」(現:済州ユナイテッドFC)に入団した。この時からポジションはプレーメーカーとしてのミッドフィルダーが多かった。

 2003年には、Kリーグの「城南一和」に移籍、翌年の2004年には再び「全北現代モータース」に移籍して2005年までプレーした。
 韓国のKリーグでは、通算203試合に出場し20得点をマークしている。守備型ミッドフィルダーのポジションも多かったが、本人は「守備より攻撃参加が得意」と発言したこともある。当時は、視野が広く優れたパス能力を持った選手として評価された。

 また、韓国代表としては、1996年にU-23の韓国代表として、アトランタオリンピック にも出場した。2002年の日韓ワールドカップでも韓国代表に選ばれたが、オランダ出身の名将ヒディンク監督の判断で、本選の試合には出場できなかった。この辛い経験が、彼を名将に導いたとの意見もある。

 一方で、日本のJリーグでも選手生活を経験していおり、2000年に入団した「セレッソ大阪」では、「J1ファーストステージ」での優勝争いの原動力となった。翌年の2001年には「JOMO CUP Jリーグドリームマッチ」でMVPを獲得し、全盛期を日本のプロリーグで迎える形となる。2002年は「J2」に降格するものの、翌年には再び「J1」へ復帰を果たした。

 そして2006年、「再び日本でプレーしたい」という本人の強い希望により、またもKリーグからJリーグのサガン鳥栖に移籍。この年、「サガン鳥栖」の歴代最高成績(4位)の達成に大きく貢献した後、2007年には現役から引退した。

 「KリーグからJリーグ」を2往復するという異色なサッカー人生を歩みながらも韓国代表に選ばれ、日韓両国のサッカーを身を持って体験してきた尹監督。
 そのアグレッシブな行動力と日本サッカーへの愛情が実り、今シーズンは大躍進を遂げたように見えるが、はたして彼のいない「サガン鳥栖」はどうなってしまうのだろうか。

 解任後は、韓国Kリーグで指導者としてデビューするという説や韓国U-21代表監督を狙っているとのうわさもあるが、彼の脳裏に刻み込まれた「ジャパニーズ・サッカー」が消えることはなさそうだ。もし、彼が本当に韓国のU-21監督になるならば、数年後は韓国代表チームの試合で「ジャパニーズ・サッカー」が見られるかもしれない。

 今シーズン、J1優勝ができるか否かは予測不能だが、これまでのサガン鳥栖の快進撃の意味は大きい。日韓両国の如何なる政治や外交状況でも、スポーツやエンタメなど、民間の交流はお互いの利益になることを実感させてくれるからだ。

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