その旅館から街中に出るときには、李舜臣(イ・スンシン)の像の前を通る。その度に、ゆっくり像を仰ぐ。像の位置が高すぎて、すぐに首が痛くなるのだが……。
■日本に渡った朝鮮王朝の使節
李舜臣といえば、朝鮮出兵である。彼は救国の英雄として朝鮮半島の歴史に燦然と輝いている。しかし、李舜臣を讃えるだけでは歴史から教訓を得られない。私がいつも思い出すエピソードは韓国にとって苦いものなのだ。
それは、1590年の出来事である。天下統一を果たそうとしていた豊臣秀吉は、大陸に侵攻する意思を明確に持っていた。
日本での不穏な動きを察知した朝鮮王朝は、秀吉の天下統一を祝賀するという名目で、偵察を目的とした使節を派遣した。
使節は日本に渡ったが、そのとき秀吉は小田原攻めの最中だった。使節一行は京都でしばらく待たされることになった。
待っている間に使節は、日本の国情をもっと冷静に調べ上げるべきだった。それなのに、ただ時を待っていたとしか思えない。
小田原攻めが終わった後に東北を回ってきた秀吉は、1590年の秋に京都に戻ってきた。
■正使と副使の意見が違う
ようやく朝鮮王朝の使節は秀吉と面会したが、外国の使節に対して秀吉の態度はかなり無礼だった。宴席でもてなす食事は決して豪華とは言えなかったし、自らの赤ん坊を抱っこしながら使節と相対したのである。
しかも、赤ん坊が粗相をして、秀吉があわてふためくという一幕もあった。朝鮮王朝側の立腹も甚だしかった。ただし、使節たちは秀吉に会って、どんな印象を持ったのだろうか。
戦乱の世を終わらせて天下統一を果たした人物。傑物だと思っていたら、無礼な田舎者のように見えたのだろうか。
朝鮮王朝に戻ってきた使節のうち、正使の黄允吉(ファン・ユンギル)は国王の前で次のように報告した。
「秀吉はかならずや我が国に攻めてくるでしょう。万全な備えをしたほうがよろしいかと思います」黄允吉は国防の強化を訴えたのだ。
一方、副使の金誠一(キム・ソンイル)は次のように語った。
「秀吉はまったく取るに足らない人物でございます。我が国に攻めてこないことは明白でしょう」同じように秀吉と面会した正使と副使の意見が、真っ向から対立したのである。
その場合、格上の正使の意見が通りそうなものだが、実はそうではなかった。それはなぜなのか。
■派閥の力学で決まってしまった
当時の朝鮮王朝は、政府高官の間で派閥争いが熾烈だった。
しかも、黄允吉と金誠一がそれぞれ所属していた派閥は対立していて、仲が険悪だった。さらに言うと、金誠一がいた派閥のほうが主流派だったのである。
最終的には、派閥の力学が影響した。政治的に主流派に属していた副使の金誠一の意見が通ってしまったのである。なんとも、驚くべき失態である。
結局、攻めてこないという金誠一の言葉を信じた朝鮮王朝は、国防の強化に乗り出さなかった。
朝鮮王朝は建国から200年を迎え、太平の世を謳歌していた。ぬるま湯にひたるような政治的体質が、おろそかな国防体制を招いてしまったのだ。
海の向こうで秀吉は、朝鮮出兵の準備を着々と進めた。
九州北部の唐津に名護屋城を建設。そこを拠点にして、1592年4月から朝鮮半島に攻め入った。
都の漢陽(ハニャン)が陥落したのは、攻められてわずか20日くらいであった。その前に国王は北に向かって逃亡している。
そんな歴史の出来事を、李舜臣の像を見ていて思い出した。
(文=康 熙奉〔カン ヒボン〕)(ロコレ提供)
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