3世紀の中頃には中央集権的な国家の基盤をしっかり整備し、4世紀後半には朝鮮半島の南岸にまで領土を広げることに成功した。こうして百済は、高句麗、新羅と覇を競う三国時代の一角を担うようになった。(写真提供:
3世紀の中頃には中央集権的な国家の基盤をしっかり整備し、4世紀後半には朝鮮半島の南岸にまで領土を広げることに成功した。こうして百済は、高句麗、新羅と覇を競う三国時代の一角を担うようになった。(写真提供:
3世紀の中頃には中央集権的な国家の基盤をしっかり整備し、4世紀後半には朝鮮半島の南岸にまで領土を広げることに成功した。こうして百済は、高句麗、新羅と覇を競う三国時代の一角を担うようになった。

韓国ドラマ「薯童謠(ソドンヨ)」のネタバレあらすじ、キャスト、視聴率、相関図、感想


■豪華絢爛たる王朝文化

 当時の百済にとって悩みの種は、南下を狙う高句麗の存在だった。両国は漢江の流域で激しい戦闘を続け、お互いの王までも戦死するという悲劇を繰り返していた。

 そうした戦いの様子はペ・ヨンジュン主演の『太王四神記』でもひんぱんに描かれていた。

 漢江流域に都があると戦乱に巻き込まれるのは明白であり、百済としても、より安全な土地に遷都する必要性を痛切に考えるようになった。

 そこで、百済は475年、都を熊津(ウンジン/現在の公州〔コンジュ〕)に移した。

 501年には第25代目の武寧王(ムニョンワン)が即位し、その治世は523年まで続いた。

 この頃が百済の黄金期で、当時は中国大陸の影響を強く受け、豪華絢爛たる文物に彩られた王朝文化を花開かせた。


■『薯童謠(ソドンヨ)』の主人公

 百済は、日本との交流も活発に行なっており、第26代目の聖王(ソンワン/日本では聖明王と呼ばれている)は、538年に日本の朝廷に仏像や仏教経典を贈っている(それは552年だったという説もある)。これが日本に仏教が伝わった始まりとされている。

 また、聖王は538年に都を現在の扶余(プヨ)に移すという大事業を行なっている。ただし、554年に新羅との戦いの中で非業の死をとげてしまった。

 百済では、戦死した王が何人もいるのだが、それだけ陣頭指揮をする王が多かったのである。

 600年には第30代目の武王(ムワン)が即位した。この王は時代劇の『薯童謠(ソドンヨ)』の主人公になっており、今の韓国で特に有名な百済王である。

 歴史書の『三国遺事』には、新羅の善徳(ソンドク)女王の妹である善花(ソンファ)と武王が結婚したというロマンスが書かれている。

 実際、その話をベースにして『薯童謠』は企画されたのである。

 ドラマのタイトルになっている「薯童謠」とは童謡のことだが、武王は歌が大好きだったようで、ひんぱんに宴会を開いては、自ら鼓を打ち、琴を弾き、上機嫌で歌ったという。また、実際の武王が偉大な王であったことは間違いなく、『三国史記』にも武王は「風貌や行動が立派で、豪傑でもあった」と最大級に称賛されている。

 こうした武王の威光があるうちは黄金時代が続いたが、盛者必衰は世の常である。


■660年に滅亡

 第31代目の義慈王(ウィジャワン)の時代に、王宮があまりに贅沢三昧となって国防意識が薄れ、富国強兵に成功した新羅と中国大陸の唐との連合軍に一気に攻め込まれてしまった。

 こうなると、百済もなすすべがなかった。

 660年、百済は滅び、再興もかなわなかった。ここに、700年近くも続いた百済の歴史に終止符が打たれたのである。

 しかし、百済から多くの人々が日本に渡った。逆にいえば、日本が百済の難民の受け皿になったのである。

 ところで、日本では百済をなぜ「くだら」と呼ぶのであろうか。有力なのが、「クンナラ」から転じたという説だ。

「クンナラ」とは今の韓国語で「大きい国」という意味である。百済から来日した人々が「どこから来たのか?」と問われて、自分を大きく見せるために「クンナラから来た」と言ったのが、百済を「くだら」と呼ぶきっかけになったという。

 確かに、「クンナラ」を早口で言うと「くだら」になる。

 今となってはどこまで信憑性があるか確かめることができないが、「かもしれない」と思わせるようなエピソードである。


文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)

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