彼は「その目標を念頭に日本語を話すメンバーも探してそうしたが、残念だったのは日本に行ったとき『君たちはこんな音楽が好きなんだろう、ここではそんな音楽は通じない』という雰囲気だった。僕にもそんなふうに話していた。『I’m your Girl』でデビューしようと言った時、日本で『プロデューサーはお前がやるな。我々が音楽を提供するから』と言った。それでもそうしたが、それが失敗だった」と伝えた。
そして「BoAのようなよいアーティストは10年経っても出会えない。もう一度やってみようと説得したのが『Listen to My Heart』だった。それが爆発的な人気を得た」とし、「本当にこれが成功なのかと思うようになったが、それ以降はもっと成功したために、今の他のプロデューサーたちもうまくやっているのではと思う。当時成功できずに終わらせたのではなく本当に幸いだと、こんなふうに考えている」と付け加えた。