(画像提供:wowkorea)
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1920年、シベリアで孤児になったポーランド人の幼児たち。日本政府は幼児たちの受け入れを迅速に決定した。

当時の日本赤十字社が作成した業務日誌には、この孤児たちの為に日本の寺などが文具類や玩具などを寄贈し、慶應義塾はこの孤児たちの為に音楽会を開いたという記録などが残っている。当時、このポーランド人孤児たちの為に、日本全国から集まった寄付金は72万円を超えた。現在の貨幣価値で換算すれば、5億円くらいとなる。孤児たちが当時書いた日記が現在まで残っている。

「毎日毎日、果物、キャンディー、アイスキャンディーをたくさん食べた。そして玩具で遊んだ。とてもたくさん食べたから、全部食べ切れず残ったものを部屋の片隅に置いておいた」

真心のこもった温かい世話を受けた子供たちは日本到着当時の青白くやせ細った姿から急速に健康を回復し、次第に明るい姿を取り戻した。そして2年後に彼らは帰国することになった。来た時はシベリアから来たが、帰って行く時は祖国であるポーランドへと直接帰国できたのだ。

帰国する時に子供たち全員には洋服が支給され、航海中の寒さを配慮して毛で作られた暖かいチョッキが別途支給された。出港当日、横浜港ではそれまで世話をしてくれた日本人父母との別れを惜しむ子供たちがたくさん涙を流した。

子供たちは船に乗船すると同時に「ありがとう!」と叫んだ。神戸港から出港する時も、横浜港と似た状況であった。全ての子供たちが別れを惜しみ、出港後、船から見えなくなる時まで手を振った。子供たちを乗せて出港した船の船長は航海中、毎晩ベッドを回って子供たちの毛布をキチンと掛け直してやり、一人一人のおでこに手を当てて熱の有無をチェックした。

この時の船長の手を生涯にわたって忘れられなかったというポーランド人もいる。1995年10月、ポーランド駐在の日本大使は8人のポーランド人元孤児を招いた。皆80歳以上の高齢であり、一人は健康が特に良くなくて孫の支えを借りて、何とか大使館に到着した。

そして涙を流して「生きている間に日本の地にもう一度行ってみたかったです。そして日本におられる方々に感謝の意でも示したかったが、今や体がとても不自由で難しくなったようです。ところが大使からお招きを受けては、這ってでも出席しなければならないという気持ちで、来るようになりました。何故ならば、ここは日本領土も同様だという話を聞いたからです。今日、日本におられる方々にこのような私の気持ちを伝達さえ出来れば、今や他の望みはありません」と語った。

皆が日本でのことを大切に胸に刻んでいた。日本の絵葉書が集められたアルバムを大切に保管していた人もおり、ある日本人から受け取った扇子を大切にしている人、出港する日に港で受け取った帽子を大切にしている人、日本人から受け取った聖母マリア像を大切にしている人など、皆が日本での思い出を大切に感じていた。

日本によるシベリアからのポーランド人孤児救済の件はポーランド人によく知られているために、ポーランド政府から多くの感謝状などがあった。その内の一つで「ポーランド国民の感激、私たちは日本の恩恵を忘れずにいます」と言うタイトルの感謝状には次のような内容が出て来る。

「日本人は我々ポーランド人とは全く所縁の無い異人種だ。加えて日本と言う国は我々ポーランドと全く関係も無い地球の反対側の国だ。それにも拘らず、我々ポーランドの不遇な児童たちを深い誠意と真心から世話をしてくれた以上、我々ポーランド人はこのことを心の奥深くに刻み、決して忘れないだろう」

「我々の子供たちをしばしば見舞った裕福な日本人の子弟たちが、自分の着ていた最もきれいで新しい服を脱いで我々の子供たちに着せてやり、髪に結ぶかわいいリボンなどの素晴らしい装飾品と指輪まで外して与えた人を知っている。このようなことが一度や二度でなかったということも知っている。我々高潔なポーランド国民はこのような日本の厚意を決して忘れないだろう」

ポーランド人のこのような気持ちは阪神淡路大震災(1995年1月)で確認された。震災の被害者30人が1996年にポーランド政府によって招かれ、三週間歓待を受けた。招かれた人々の中には地震で父母を皆失い、孤児となった子供も含まれていた。当時、4人のポーランド人の元孤児が招かれたこの日本人一人一人に薔薇の花を贈った。ポーランドはその後、東日本大震災の時も多額の義捐金と共に様々な支援活動をしていた。

※この記事は韓国の保守論客ファンドビルダーさんの寄稿文を日本語に翻訳したものです。韓国メディアには既に韓国語版が公開されています。翻訳の正確さに対する責任は当社にあります。

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