米ロサンゼルスで生まれたリナ・パークがスカウトされ韓国に渡ったのは1996年。国内の芸能界では英語が流暢な在米韓国人のデビューがはやり始めていた。当時カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の演劇映画科2年に籍を置いていた彼女は、歌手の夢をかなえようと休学し韓国の地を踏んだ。それまで韓国を訪れたのはただ1回だったが、故国の音楽と文化、言葉を学ぶ良いチャンスだと考えた。そしてこの地で取り戻した名前がパク・チョンヒョンだった。98年にファーストアルバムを発売、“R&Bの妖精”と呼ばれるようになった。
 
4枚目からは新たなプロモーターとレコード契約を結んだ。その時に1年間米国で学校に通うという条件を出した。ニューヨークのコロンビア大学英文科に編入したが、1学期を通ったところで2002年サッカー・ワールドカップの公式盤と4枚目アルバムのレコーディングのために韓国に戻り、そのまま居続けた。学業を中断したことは残念で、今回6枚目アルバムにあたっても学校のアドバイザーと毎日電話で話すなど悩んだ。しかし、パク・チョンヒョンはアルバムを出す方を選択した。

リナ・パーク の最新ニュースまとめ

『Come To Where I Am』は2年10か月ぶりの新譜。これまでは2、3曲ほど自作の曲も入れていたが、今回は1人で4曲、さらにプロデューサーとの共同作曲6曲の合計10曲を自らが生み出した。ジャンルの変化という試みよりも、シンガーソングライターに挑戦したのだ。

パク・チョンヒョンは2005~2006年の空白期、主に日本で活動していたという。その間、シングル5枚にアルバム1枚を出した。このときに出会ったファン・ソンジェが新譜のプロデューサーだ。「わたしは米国のポップ文化圏で育ち、歌謡曲を作ると難しいとよく言われた。今回は聞きやすい音楽にしたかった」と話す。タイトル曲の『涙色の文字』は、透明で上品ながらも強弱を調節したボーカルが耳をとらえるバラード曲だ。ボサノバ風のジャズや、英語の歌詞で70年代のプログレッシブ・ロック を連想させる曲など、彼女の豊かなボーカルのスペクトラムが体感できる。「自分の音色がどうかなど分析したことはない。声が透き通って細い程度かな。一時、ほかの歌手のハスキーな声がかっこよく思え、残念に思ったこともある。人の持つものはうらやましいものだから。それでも人がわたしの声を聞いてそれぞれに異なるイメージを膨らませるのを見ると、やわらかなと解釈される音色のような気がして満足している」。

歌手になって早10年。30代に入り結婚適齢期も迎え、母親も彼女が米国に戻ってくることを望んでいるようだ。米国の音楽界に進出することを夢見たりはしないのだろうか。考えもしたし、周りからずいぶん勧められた。いつかは進出したいが、急いでは考えないという彼女。韓国で歌ってから米国デビューしなければとも考えたためだ。今は自分の歌に韓国語の歌詞がつくことが不思議でうれしいと語る。将来的には米国に帰ることを考えているようだ。「韓国にいれば芸能人だが、米国では平凡な人間に戻るから」と微笑みを浮かべた。


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