<W解説>韓国・尹大統領も称賛した「韓国孤児の母」故・田内千鶴子さんの愛
<W解説>韓国・尹大統領も称賛した「韓国孤児の母」故・田内千鶴子さんの愛
韓国のユン・ソギョル(尹錫悦)大統領が今月13日、「韓国孤児の母」と呼ばれる田内千鶴子さん(1912~1968年)が守り続けた南西部チョルラナムド(全羅南道)モッポ(木浦)市にある児童養護施設「木浦共生園」を訪れた。園を運営する財団の設立95周年記念式典に出席した尹大統領は、今後も共生園が日韓の友情の象徴として発展していくことを願うとし、「政府も社会的弱者をさらに厚く支援する弱者福祉を実現していく」と述べた。

田内さんは1912年、高知市生まれ。日本統治時代の1938年、木浦でキリスト教伝道師のユン・チホ(尹致浩)氏と結婚し、以降、ユン・ハクチャ(尹鶴子)と名乗った。当時、庶民の生活は苦しく、孤児も増えていく中、田内さんは尹氏が木浦で始めた孤児院「木浦共生園」の活動に携わり、夫婦は多くの孤児の父母となった。「共生園」はその後教育機能を備えた施設へと発展していった。同園には今も40人ほどの子どもたちが暮らす。

1946年、田内さんは母親と2人の子どもを連れて一旦は故郷の高知に引き揚げたが、木浦に残してきた夫や孤児たちへの思いが募り、翌年に母親の説得を振り切り韓国に戻った。1951年に朝鮮戦争で夫が行方不明になった後は、その遺志を継いで孤児救済のために尽力した。

その功績が認められ、1963年に韓国政府は田内さんに日本人初となる文化勲章国民章を授与した。当時のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領は田内さんについて「私たちの子ども(韓国の子ども)を守って育ててくれた人類愛の人」とたたえた。田内さんは受章を祝う席で「夫が帰る時までと思い、園を守ってきただけ。苦労は子どもたちがしました」と答えている。1968年に病で倒れて56歳で生涯を閉じるまで、3000人もの孤児を育てあげた。死去した際、木浦市は市民葬を執り行い、約3万人が参列した。

韓国孤児のために捧げた田内さんの生涯は1992年2月、当時日本テレビ系列で放送されていた人物系ドキュメンタリー番組「知ってるつもり?!」で紹介され、これがきっかけとなって日韓合作映画「愛の黙示録」(1995年)が制作された。制作にあたっては、高知市民による「映画を成功させる会」が発足し、多額の支援金が集まったという。

韓国では当時、日本の大衆文化が解禁されようとしており、同作品は韓国政府の日本大衆文化解禁認可第1号として上映を認可された。このことについて当時の小渕恵三首相は「『愛の黙示録』の上映が、これからの日韓文化交流の出発点となったことを喜んでいる」と語った。

田内さんの思いはその後設立された「共生福祉財団」によって受け継がれている。

今月13日、園を運営する同財団の創立95周年記念行事が同園で開かれ、尹大統領をはじめ、夫人のキム・ゴンヒ(金建希)氏、キム・ヨンロク全羅南道知事、パク・ホンリュン(朴洪律)木浦市長、同園職員ら約500人が出席した。日本からも、自民党の衛藤征士郎議員、日本大使館の熊谷直樹総括公使ら約100人が出席した。尹大統領は式典で田内さんについて「国境を超越して他国の子どもたちを自分の子のように育て上げた『韓国孤児のオモニ(母)』だった。その愛は韓日の国民の心を動かした」と述べ称えた。

また、尹大統領は木浦がある全羅南道出身のキム・デジュン(金大中)大統領と小渕恵三首相(いずれも当時)による日韓共同宣言から今年25年を迎えたことに触れながら、同宣言は園の活動を見ながら木浦で育った金氏と、同園の活動をよく知る小渕氏だからこそ出せたのではないかとし、宣言は同園から出発したともいえると述べた。

昨年は田内さんの生誕110周年を迎え、同園で記念式典が開かれた。現在の日韓関係はその時より改善し、政界のみならず財界、そして民間同士の交流も活発化している。「韓国孤児の母」の愛は、現在の日韓関係へと受け継がれている。

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