パク・ヒョシンは先ごろ、著名な作曲家ファン・セジュン氏が代表を務めるジェリーフィッシュ・エンターテインメントとCD制作契約を交わした。視聴させてくれたタイトル曲『愛した後に』は、秋の代表曲にぴったりなメロディーラインがきわ立っている。以前のバイブレーションをきかせた歌い方とは違い、控えめに淡々と歌っている。
2年余り活動を休んでいたのは、前所属事務所との裁判沙汰が原因だった。昨年初め、前所属事務所が専属契約に違反したとしてパク・ヒョシンに損害賠償を請求、双方は依然として十分な合意に至っていない。
この間、どのように過ごしていたのかとの質問に、彼は長いため息で答えた。「訴訟で辛い思いをし、歌がいやになり休みたいと思いました。昨年は家にいるのもつらく、友人の家を転々としたり、巨済島などを旅しました。過ぎた日々を振り返る時間が必要だったんです」だが、休んでいるうちに歌いたくなり、ステージが恋しくなったという。
この間に痛切に感じたことは、「なぜ自分は何事もなく、穏やかに歌手として生きられなかったのか」だった。ことしで歌手生活10周年を迎える彼は、デビュー当時からのエピソード、複雑な家庭環境など、これまで語らなかったストーリーを率直に語った。その中には、過去の大衆音楽界の暗部も随所に垣間見える。
「テレビに出る人が宇宙人のように見えた」という彼は、中学3年生のころから歌手への憧れを育ててきた。抜群の歌唱力のおかげで、高校1年生で苦もなく音楽事務所に入ったが、ファーストアルバムを出す前に経営難で倒産した。
その事務所の社長の紹介でオーディションを受け、別の事務所との縁をつかんだが、ここでも苦労を重ねた。新事務所の社長は話をどんどん変え、正式契約前に事務所を移ろうとしたパク・ヒョシンに対し、時おり支給した小遣いや食費、用意していたデモ曲などの費用を膨らませ5000万ウォンを返すよう迫ったという。小学5年生で両親が離婚し、中学時代から牛乳や新聞配達などアルバイトをしてきた彼にとって、とても払えない額だった。そのとき、「何があっても歌手にはならない」と心に決めた。
ある作曲家の説得で、再び夢を追い業界に足を踏み入れたが、3枚のアルバムを出す間、CDや公演収益金を十分に受け取ることはできなかった。CD制作者数名で分けていたのだという。「このときは本当に世界が崩れ落ちるような気がして涙も流しました。自分が知っている世の中と現実の隔たりを知らされたんです」。
だれも信じられなくなり、2003年に自ら音楽プロダクションを設立。2004年に4枚目のアルバムを出したが、独立は容易でなかった。資金難でプロダクションをたたみ、紆余(うよ)曲折の末に現在訴訟中の前所属事務所と契約したが、再び紛争に巻き込まれた。
「自分が契約を終えられなかったので、受け取った契約金の一部を返済すべきだと思っています。訴訟初期に脳神経疾患で薬も服用しましたが、歌に対する意志はさらに強くなりました」歌うときだけはあらゆる苦痛を忘れられるため、「ただ歌だけを歌いたい」と胸の内を訴えた。
空白期に人生を学んだだけに、今回の新譜にも人並み外れた覚悟をみせる。自ら作曲した曲も収録したほか、ファン・セジュン氏ら著名作曲家が力を添えている。
パク・ヒョシンは、これまでの自分のカラーは“ダーク”だったが、今は暗い心を捨てたいと思うせいか、愛の詩も以前のように悲しいものでなく、思い返すと笑顔になれるような余韻を含んでいると説明する。歌唱法も無駄なものを除いて淡白に変えた。
デビュー10周年を迎え、“巨大な”公演も計画中だ。規模よりもメッセージが大きな公演になるとの説明だ。
パク・ヒョシンにとって、10年の歌手生活は「人生のすべて」であり、これまで持ちこたえられたのは家族とファンのおかげだった。彼は「お母さん」という言葉を口にする際には涙も見せた。両親の離婚後、父、継母と暮らしていたが、高校1年生のときに実の母と一緒に暮らすようになった。「気苦労をかけて申し訳なく思います。母とやさしい兄、応援してくれたファンがいなければ、自分はマイクを手放していたでしょう」
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