赤字がかさみ、20年間の運営の末にことし5月に閉館した京都・丹波マンガン記念館の李竜植(イ・ヨンシク)館長が、4日に聯合ニュースとのインタビューに応じた。
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在日同胞3世の李館長は3日、非武装地帯(DMZ)の価値と意味にスポットを当てるために制定されたDMZ平和賞の特別賞を受賞した。賞は江原道、鉄原郡、江原大学などが共同で2005年に制定したもので、李館長は呉栄煥(オ・ヨンファン)大阪総領事の推薦を受け、記念館を運営し平和の重要性を広く伝えた功績を認められ特別賞に選ばれた。
李館長はインタビューで、「この受賞を機に再開館を目指し努力し、日本社会に記念館が必要な理由を本格的に伝えていきたい」と意欲を示した。再開館の際には十分に施設を整備し、日本の加害者としての歴史を紹介するとともに、所蔵した資料をよく研究して考証資料として活用する考えだ。
記念館は京都市中心部から車で約1時間のところにある。戦争中に日本へ強制連行され、過酷な労働を強いられた在日朝鮮人の痕跡を紹介するため、李館長の父親である故・李貞鎬(イ・ジョンホ)氏が1989年にマンガン鉱山のあった場所に設立した。李館長の祖父は釜山から日本に連れてこられマンガン鉱山で生涯を終え、父親も同じ鉱山で働き、じん肺症でこの世を去った。
記念館周辺にあった300余りの鉱区は、1930年代以降に数多くの朝鮮人が強制連行され、貧しさと空腹、辛い労働と闘った場所だ。現在、7000点余りの資料が記念館にそのまま保存されている。
マンガンは乾電池など生活必需品のほか、鉄鋼の生産にも欠かせない素材で、戦争中には大砲などの武器を作るのに使用された。当時は縦90センチメートル、横1メートルの狭い坑道に入り込んでマンガンを掘り出さねばならず、戦争中には掘り出した土とマンガン石を毎日100キログラムずつ背負って運び出さねばならなかったという。
李館長は、「坑道を支える支柱がなく、採掘中にトンネルが崩れると圧死してしまうなど、在日朝鮮人の悲惨さは言葉にできないほどだった」と伝え、そうした歴史を保存するのが記念館だったと述べた。
館長を引き継いでから約14年間、赤字に苦しみながらも「記念館は自分の墓だ」という父親の言葉を胸に運営を続けてきた。開館以来の20年間で、20万人ほどが訪れたという。
李館長は、「日本は他国に害を加えた歴史を残そうとしない。隠したい歴史のため、これまで運営費などの支援は一銭も受けられなかった」と批判しながら、いかに過酷な行為を行ったのか、本を出し国内外に伝えていきたいと述べた。「在日朝鮮人マンガン炭鉱アリラン」と題する本を、1月ごろに出版する予定だ。
李館長は締めくくりに、「先祖らは炭鉱で死んだが一銭も給与を受け取れなかった。日本は歴史の清算のためにも個人賠償を十分にすべきだ」と強調した。
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