イ・スンウ の最新ニュースまとめ
韓国で否定的なイメージが強い伊藤が直筆した韓国銀行(韓国の中央銀行)旧本店(ソウル市中区)の礎石について、韓国文化財庁が26日、審議の結果、保存することを決定したと発表した。
この礎石をめぐっては、文化財研究家のイ・スンウ(李舜雨)氏が2016年、刻まれた「定礎」の文字が伊藤の筆跡であることを裏付ける史料を初めて公開。その後、文化財庁は調査を進め、昨年10月、この文字が伊藤の直筆のものであると結論付けた。
韓国の書体専門家が、韓国銀行旧本店の設計者の一人で、明治期から昭和期に活躍した建築家、中村與資平(よしへい)の資料にある伊藤の文字などと照合したところ、特徴が酷似していたことから判断したという。
昨年12月には、韓国の18歳以上の国民1000人を対象に世論調査も実施。「礎石を歴史的記録として保存し、案内板を設置すべき」との回答が52.7%、「撤去すべき」は47.3%という結果だった。
審議の結果、文化財庁は説明用の看板を立てた上で礎石を保存することを決定した。日本統治時代の名残は、韓国では「日帝残滓(ざんし)」と呼ばれ、排除する動きが強い。現在は韓国銀行の貨幣博物館として運営されているこの「朝鮮銀行本店」は、運が良かった。「日帝残滓」とレッテルが付けられ、粉々にされた建物もあるからだ。
大韓帝国の日本併合には反対していた伊藤博文がアン・ジュングン(安重根)に暗殺された翌年の1910年、半島と列島の併合が実行され半島には日本統治期が始まった。伊藤博文が仕切っていた韓国統監府の後身である朝鮮総督府は、1926年、朝鮮王宮キョンボックン(景福宮)の敷地内に巨大な庁舎を建てた。
ドイツ人建築家デ・ラランデの基本設計と日本人建築家の野村一郎などにより完成された西洋式の建物だ。滅びた朝鮮王朝の権威を威圧するような場所に建てられた4階建の美しい近代的な建築物で、新時代を象徴するモニュメントでもあった。
1945年の終戦で解放され、光復期を迎えてからは米国の「軍政庁」として使われた。日本の東京において皇居とマッカーサーのGHQ(第一生命ビル)の位置関係と似ている。
その後、1948年の大韓民国の成立後は韓国の「国会議事堂」、「中央庁」として使われたこの建物。1950年の朝鮮戦争の時は、北朝鮮軍と国連軍がソウルを占領・奪還したことを象徴する旗の掲揚場所でもあった。以降、国立中央博物館として使われたこの建物は、「日帝の残滓」の代表格として、1995年に解体されることとなった。
日韓の有志が全ての移築費用を出すから破壊だけはやめて欲しいとお願いしていたが、反日を国内政治に巧みに利用するキム・ヨンサム(金泳三)元大統領の決定で建物は結局、大々的な生中継の中、解体・爆破されてしまった。現在は建物の尖塔部だけが残り、韓国の独立記念館の地面より低い場所で見下ろされている。
他に、新たな保存の方法を選んだ「日帝残滓」もある。
東京駅と外観がそっくりの「ソウル駅舎」は2003年までソウルの玄関口として使われた。この建物は改装された後、現在は「文化駅ソウル284」という名で複合文化スペースとして使用されている。
日本の統治時代の1926年に建築された「京城府庁舎」は、2003年に文化財に登録された。2012年までソウル市庁舎として使われ、改修された後、図書館に生まれ変わった。反日市長でセクハラ問題で自殺したパク・ウォンスン(朴元淳)元ソウル市長がこの図書館を業績としていたことも皮肉である。
伊藤博文の定礎石が保存されることが報じられると、韓国のネット上では「恥ずかしいと思わないのか?日帝時代が懐かしいみたいだ」と反発の声もあったが、「歴史を忘れる民族に未来はない」、「撤去して無くすことより、後世に歴史の痛みを伝えることも悪くないことだ」と過去の歴史を忘れないためにも保存は妥当との声も多かった。
今回、韓国人が憎む伊藤博文の、直筆による礎石を保存する選択をした韓国。現在も日本統治時代の遺物が残る中で、「日帝残滓の清算 vs 負の遺産の保存」の選択肢の間で、これからの韓国世論の動きにも注目したい。
但し、大前提にしないといけないのは、歴史を正しく受け止めることである。真実を求める学界の検証は揉み消され、自尊心と感情論だけで政治利用され、一方的な「反日教育」がされ続けるのは、自らを不幸にすることにすぎない。
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