チョ・ソンモ=8日、ソウル(聯合ニュース)
チョ・ソンモ=8日、ソウル(聯合ニュース)
昨年5月に公益勤務要員としての軍服務を終えたチョ・ソンモが9日、1年間かけ制作した7枚目のアルバム『Second Half』を発表した。
 先ごろインタビューに応じたチョ・ソンモは、「前半戦を終え、2年間のハーフタイムを挟んで後半戦がスタートした」と話した。同じ日に召集解除されたキム・ジョングクがアルバムを発表し、チャート1位に入るなど活躍する姿をみて不安や焦りを感じたが、アルバム発売前にもかかわらず再注文が入り、気分がいいと笑う。

チョ・ソンモ の最新ニュースまとめ

 1998年にデビューしてから、2005年までに合計874万6360枚(韓国音楽産業協会基準)のアルバムを売り上げ、最後のミリオンセラー世代歌手と呼ばれた。一方で、2000年に出演したテレビ広告、2002年の所属事務所との紛争など”空振り”をした記憶もある。
 ”ワールドスター”を夢見る最近の新人歌手と違い、アルバム1枚を発表するのが目標だったチョ・ソンモにとって、”前半戦”のスタートは屈辱的だった。外見があか抜けないという理由で、メディアに顔を出さない「顔のない歌手」としてデビュー曲『To Heaven』を発表し、ある有名プロデューサーには「そんな顔ではテレビには出られない」とまで言われた。人気女優のキム・ハヌルが出演した同曲のミュージックビデオ撮影現場では、自分の曲でありながら近くで見守るのが精一杯だった。世間がアップテンポのダンス曲に飽きたころにバラードを発表したことで、たちまち人気を博したチョ・ソンモ。「自分の歌を自分の歌と言うこともできない時代もあった」が、多くのヒット曲を生み出し、「前半戦は美しくて幸せな時間だった」と自評する。

 135万枚余りを売り上げたファーストアルバムと、204万枚余りを売り上げたセカンドアルバムの間には、芸能人が運動能力を競うバラエティー番組に出演し、”万能スポーツマン”として認知度を高めた。その”万能スポーツマン”が、兵役では公益勤務要員として服務することになり、ひんしゅくも買った。「生まれつき肩の脱臼が多く、番組ではよく負傷し、結局、右腕じん帯が切れて手術を受けました。それでも現役として服務すべきだったと後悔もしました」。
 それでも、公益勤務要員として服務した期間は意味ある時間だったと語る。組織生活を通じ人との付き合い方などを学び、区役所や銀行業務にも無知だった自分に反省した。

 ”後半戦”を迎えた今、意欲がみなぎっているようだ。前半戦の記憶をたどり、当時のマインドを取り戻しているところだと話した。空白期間にステージに立てるありがたさを知り、レコーディング中は常に笑顔を絶やさなかった。所属事務所の代表には「1日も休ませないでほしい」と頼んでいるという。
 「わたしの音楽を聴いて”チョ・ソンモなの?”と言わせるほど、実験的な冒険をしてみたかったんです。シンガーソングライターではなくボーカリストなので、アクション、ドラマ、コメディ映画に出演する俳優のように、さまざまなジャンルに挑戦してみたかった。すると、周りから”学校には行け”と言われました」。
 「学校には行け」とは、新ジャンルにチャレンジするのは構わないが、10年間余り愛されたチョ・ソンモの音楽のカラーは維持すべきだという意味だ。今回のアルバム収録曲では、キム・ヒョンソク作曲の『物語』、イ・スンファンが手がけた『痛かったよ』が、チョ・ソンモカラーを感じさせる。
 ハ・ジョンホが作詞したタイトル曲『幸せだった』は、レコーディング中にチョ・ソンモを3度も泣かせかけた。自分の歌で泣きそうになったのは久しぶりだったという。ユン・ジョンシン、カン・ヒョンミン、エコ・ブリッジら、意外な作曲陣もクレジットに名を連ねている。
 「活動しながら縁ができた方たちです。”いい歌を1つだけください”とお願いしました。むしろ作曲家の皆さんのほうが、自然にわたしのスタイルを作ってくれたような気がします」。

 バラード歌手にはたくましい体は似合わない、スキニー・ルックで歌ってはいけないという型にはまった見方が、逆に自分を刺激するというチョ・ソンモ。「アルバム市場は厳しい」と言われれば「できる」ことを見せ付けたいと意欲をみなぎらせる。最近は数億ウォンを投じてアルバムを発表しても、反応がなければ1か月足らずで活動をやめるケースもあるが、「後輩も増えたことだし、あきらめずに勝負する姿を見せたいです」。
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