韓国映画「あなたを忘れない」のキャスト、公開日、あらすじ
■息子を信じた母親
母親の辛閠賛(シン・ユンチャン)さんは、最愛の息子である李秀賢さんについてこう語った。
「大学生の頃から息子は将来のことをいろいろと考えていました。ただ、息子は普通のサラリーマンのように、定時に出勤して決まった仕事をやっていくタイプではなかった。何か大きな夢を持っていたのです。大学4学年のときに日本に留学したいと言いだしても、不思議ではなかったですね。私は一時期日本語を勉強したことがあるんです。当時の韓国では日本に対して強い反感がありましたけど、私は日本に悪い感情を持っていなかった。なんといっても、日本はアジアの中でもいちはやく発展した国ですし、韓国が学ぶことが多い国だと思っていました。そういうこともあって、私は日本語を勉強して将来に役立てようと思っていたんです。結局、日本語の学習を続けられませんでしたが、教科書をずっと持っていて、秀賢もその本を多分見たと思います。それで日本語に興味を持ったのかもしれません」
李秀賢さんは名門私学の高麗(コリョ)大学で貿易を学び、将来はスポーツ・マーケティングに進みたいと考えていた。
「秀賢は必死に自分のやりたい分野について説明してくれました。秀賢はとにかく『日本で本当に一生懸命にやります』と言っていました。あの子には、どんな仕事でもやり抜く強い意思がありました。息子を信じよう、と私も夫もそう思いました。秀賢は日本で何を学んで何を身につけてくるか。それを大いに期待して私たちは秀賢を日本に送り出したのですが……」
■突き進む勇気
李秀賢さんの人生は、わずか26年半だった。あまりにも短いが、その中で彼はどう生きたのか。
1999年に自分のホームページで自己紹介をしている。
「僕は、李秀賢と言います。1974年7月13日に慶尚(キョンサン)南道の蔚山(ウルサン)で生まれました。家族は父母と妹が1人います。
趣味はマウンテンバイク、ギター、スキンダイビング、水泳、バスケットボール、テニスです。あと好きなのは、酒を飲むことや、運動して汗を流すこと、コンピュータ、何でも整理することなどです。
僕の宝物は家族、恋人、友人、ギブソンのギター、ノートパソコンです。
僕の別名はタフガイ。将来の夢は大統領になることでしたけど、最近はちょっと……。それより、最高の人生を楽しみながら生きていきたいですね。この“楽しく”というのは、いつも遊んでいたいという意味ではなく、仕事にしても勉強にしてもできるだけ自分がやりたいようにやるということ……いつか振り返ったときに、絶対に後悔したくないということなんです。
生きていれば駄目なときもありますけど、それしきのことで後ろに退きたくはないですからね。そんな苦労や逆境も人生の一部分だし、いつでも受けて立つ準備ができていますし、突き進む勇気もありますよ」
■象徴はチャレンジ
同じホームページの中で、1998年7月に行った夏休み旅行のことを書いている。この旅行はマウンテンバイクに乗って韓国を一周しようとしたもの。友人と一緒に4人で出発している。
「自分の国をまわってみると、外国に負けない魅力的な場所もあるし、苦労して回るだけの価値があると思う。そのうえで、外国に行けば、韓国人としての自信も芽生えるだろう。とにかく、何ごともぶつかってみなければならないと思う。それでも駄目なときがあるければ、やってみようという気持ちをもつことがとにかく重要じゃないだろうか。最善を尽くせば、結果はそれほど重要ではない。最善と結果の差は、自分に不足している能力だけだ。しかも、自分にどれだけ能力が不足しているかがわかれば、再びチャレンジすればいいだけの話。まだ僕は若いんだから。僕らの象徴はチャレンジだ」
李秀賢さんは強調していた「チャレンジ」の具体策として日本にやってきた。1999年8月27日に、赤門会日本語学校に入学願書を出したが、就学理由という欄にこう書いている。
「私は国際貿易に関心を持っていて、高麗大学貿易学科に入学しました。そこで、特別な考えもなく、ほとんどの学生と同様に英語圏の国同士の貿易関係について学びました。日本については、多くの人が知っている程度のことはわかっていますが、若干の先入観もあります。それと、『地域研究』という専攻科目を受けながら日本について研究し、発表とセミナーをする機会がありました。その中で、徐々に日本の経済・文化・社会などすべての面に興味を感じ、特にわが国と日本との交易関係に強い関心を持ちました」
■大事なのは一人ひとり
李秀賢さんが書いた就学理由の続きである。
「学校で第二外国語として1年半くらい日本語を勉強してみたら、もっと日本語を詳しく勉強したいと思いました。そして、直接日本を体験してみたくなり、日本語の研修を決意しました。日本語学校の研修を通して、日本で見て聞いて感じたことを土台にして、韓国または日本の貿易会社に入社し、両国の交易に関する確実な第一人者になりたいと思います」
李秀賢さんは留学後にもずっと日本に住みたいという気持ちを持っていた。
彼にとっての日本とは?
スポーツクラブで使ったタオルをていねいに折り畳んでいる日本人を見て、「なんてマメなんだろう」と思い、道を尋ねたときに親切に対応してくれたことにも感心した。
ただし、外国人ということで差別を受けたこともあった。しかし、李秀賢さんは落胆しなかった。
「日本人にも韓国人にもいい人がいれば、そうでない人がいる。大事なのは一人ひとりなんだ」
そう感じて、なにごとも前向きにとらえた。しかし、まさか自分が異国で26歳という若さで生を終えるとは、夢にも思わなかったことだろう。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
(ロコレ提供)
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